わじまのそうめん
以前、浮世絵復刻版を買い求める機会があった。
この時、我が石川県を題材にした作品はないものかネットではあるが探してみた。
なかった。
当然だと思った。松尾芭蕉じゃあるまいし、高名な作家が遥々北陸まで来て絵を描くなんて
しかも街道沿いには名勝を思いつかない。
東海道五十三次や冨嶽三十六景等街道近くの便が良い所と勝手に思っていたからだ。
日本海側に住む者は歴史から取り残されたように感じるという小さなコンプレックスがある。
特に江戸時代となって以降、歴史の舞台になったり、スポットライトに照らされることはほとんどない。
ご当地の話題が全国区には出てこない。
加賀百万石等と過剰なプライドを鼓舞する言葉も次第に薄れてきていた。
その後、TVの旅番組やネットの普及などで注目を集めるようになってきたが継続するには
かなりの努力が必要だろうと思う。
 明治時代の錦絵やポスターは目にすることはあったがいずれにせよ我が故郷を題材にした
浮世絵等ないだろうな。と思っていた。
   

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題名 絵図 ここはどこ? 作者
まず朝瞰とはどういう意味だろう。鳥瞰図ならよくあるbird eye でも角度が低いかな。
医王は医王山と考えるのが適当だろう。それらしい山も描かれている。
左中央に城が見える幾つかの櫓からして金沢城だろう。すると金沢の北西方向
から医王山を望む図である。手前の橋は犀川に架かっているものだろう。
初代歌川広重
題名からもわかるように
もちろん右上の描かれているのは白山だろう。
手前に海沿いに連なる松林が見え、その間に幾つかの村らしい屋根が見える。
松林の印象からすると小松や美川かな。この角度で描きたいとすればもっと北。
他の作品からすれば内灘や河北から見た図も考えられる。
初代歌川広重
黒津船は以前河北の式内社を調べた時出てきた地名だ。
内灘の小浜神社は何回か遷座しているが黒津船もその一つ。
今は内灘町宮坂と合併し、バス停に名を残すのみだが海沿いは権現森、
潟沿いまでの範囲であったと思われる。
この景色、海の向こうに山はないので河北潟越しに医王山(白山)?を
望んでいるのではないか。手前の鳥居は小濱神社?
初代歌川広重
長谷山これがよくわからない。
卯辰山らしき山があり、中腹あたりに石段の参道、寺院らしき建造物。
そうだこれは長谷山 観音寺にちがいない。長谷山はこの寺院の山号。
手前は往来激しい浅ノ川大橋。
かなり自信あるのだがちょっと不安。
初代歌川広重
蓮湖とは河北潟のことらしい。
藩主が美濃から蓮を持ってきて繁殖させ、現在の特産品につながったようだ。
この絵は「広重六十余州名所図会」元の絵となりこれら八作品中でも代表的なもの
として認知されたのだろう。絵の奥に見える山は白山だろうか宝達山だろうか。
何れにせよこれは海ではなく河北潟で漁火漁。
今は埋め立てられてこのような景色はないのかもしれない。
初代歌川広重
帝慶とはなんだろう。何となく,めでたい名前か。
九谷焼亡き後の金沢に京から青木木米を呼び寄せ春日山(現在の金沢市山の上町)
に窯を築く。製陶松田平四郎が窯元。帝慶は、春日山を5代藩主綱紀公が帝慶山と
詠ったことによる。この春日山の別名帝慶山。この絵はこの帝慶つまり卯辰山、
またはその一部を指すのではないだろうか。
しかし、この際の帝慶は窯とは関係ない只の山の別名として使われた可能性も
あるが。
初代歌川広重
金沢大学鶴間キャンパスという所がある。
小立野台地から旭町へと急なヘアピン坂、鶴間坂がある。
とすれば渓谷のようなこの図はかなりその地形に近い。
天徳院あたりは鶴間町と言われ町内会もあった。距離的にも近い。近い。
この説でちょっと心配なのは鶴間坂は鶴が舞う場所と鶴舞だったことだ。
鶴間町は明治初年。鶴舞が鶴間になったのは江戸時代だろうがいつなのだろうか。
初代歌川広重
これは文句なく曹洞宗の寺院。東香山大乗寺の晩鐘風景だろう。
鐘は描かれていないようだが人々がお寺に参拝している様子がみれる。
大乗寺HPにもこの浮世絵のことが書かれていた。
初代歌川広重

 

 

       

2代目広重 2代目広重 初代歌川広重 初代歌川広重
福浦港 白山と金沢城 河北潟と白山 能登金剛巌門と
不動滝
   
   

長谷川貞信

   
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