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石川県新十名所は新愛知新聞が昭和4年に提唱したものもので、昭和2年から全国的に選定されたようです。新愛知新聞社は現在の中日新聞社のようです。

決定について人気投票なのか誰が選んだかは不明ですが、今にして見ると何だか加賀地方の人が中心に選んだのかなあ。という感があります。名古屋は一般投票だったようです。

決して現在なら選ばれないだろうという場所もあるのですがそのころはこれらがメジャーな場所で話題の中心地だったのでしょうか。

1 江沼郡 気多御子神社 2 江沼郡 塩屋海岸 3 河北郡 義経旧蹟鳴和滝 4 能美郡 久常白髭神社 5 珠洲郡 九十九湾
石川県
新十名所
石碑
 石川県
新十名所
石碑
 石川県
新十名所
石碑

 

6 能美郡 狭野神社 7 金沢市 尾山神社 8 能美郡 手取峡谷 9 能美郡 明公園九谷庄三碑  10 江沼郡 曾宇寺尾山観音
 石川県
新十名所
石碑
 石川県
新十名所
石碑

七重の石塔

六重の塔?

9の九谷庄三の石碑の隣に気になる石塔がありました。
ここは能美市の奥野八幡神社。看板によると兼六園の瓢池にある6重の海石塔と一対であるとのこと。
しかも、加藤清正が朝鮮から持ち帰り秀吉から利家に渡った可能性があるとの説が。いろいろなHPに書いてある。実際に比べてみた。笠に、笠と笠をつなぐ軸部、明かりを入れる火袋、どこをみてもそっくり。同じ人が作ったとしか思えない。
ネットで7重以上の石塔を検索してみたがこのような構造、形のものは見られない。ほとんどが石の笠だけが何重も重なった形でできている。
だいたい火袋があるのは燈篭の特徴だと思うが石塔にあること自体珍しいのではないか。
私は素人でほとんど予想でしかないがいくら素人でも軸部分が窓のように長方形にくりぬいたような形も他に見ない。
他にみられないことから朝鮮からの戦利品?といわれたのか。

 
奥野八幡神社              奥野八幡神社
            七重の塔
海石塔 兼六園

少なくてもこの2つの石塔が強い関係性を持つことに疑いはない。笠は小松の滝ケ原石、軸部は金沢の青戸室石、火袋は坪野石といずれの塔も加賀の石材を使用しているという。
ちょっと歴史ロマンはなくなったかもしれないがこれで朝鮮説は決定的に否定されるだろう。
2007.10.07.北国新聞.ネットニュース.これをみると、もうこれを引用するしかない。普通塔の笠は下より順に小さくなり一番上では70%くらいまでになる。
この2つの塔を測定し た所、これらがひとつの塔であったという仮説に矛盾ない測定結果が得られたという。
そう唱える石塔研究家の石井さんは下に奥野八幡神社の七重の塔その上に海石塔の一番下の部分が乗っかって、十三重の塔であったのではないかという。
そして、金沢城玉泉院丸にあったものを前田利常が小松城に隠居するときに半分の七重部分を小松へ持っていった。
ここで小松城に2重部分だけが埋没した。(この部分が壊れたのだろうか。)廃藩置県により明治5年に寺井村の綿谷平蔵が買収し、奥野八幡神社に奉納した。そんなところだろうか。
たしかに奥野八幡神社の一番下部はどっしりといかにも基部といえるような石塊でできている。ちなみにここに奉納と浅彫りしてある。
それに比し、海石塔の基部は窓の開いた軸でできており塔の途中の部分を思わせる。
不確かな説が残されたまま歴史を歩んだ両石塔だが、気になることもある。
まず、途中に火袋を2、3個作る意味はあるのか、最下部の笠は1.22m、そして一番上が0.85mとはいえ合わせて高さ4+5m=9mの石塔。
何かアンバランスだな。まず最初にそう思ったんですけどね。次に笠があんなに虫食い状に朽ちた感じなのに軸部分はシャープなエッジで形成されている。
面も凸凹していない。これは石の性状、特徴なのか。
何百年も前の石には思えないのだが。いつの時代かに修理したわけではないだろうか。その時、以前と同じデザインで修理したのか。
半分となった石塔に合うデザインに変更された可能性はないのか。
 まったくもって素人が口出すべきことじゃないんだけどね。

 

 

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